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2015/09/07

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マジで東京ドームを目指してた男たちDOPING PANDA

『行こうぜ、水道橋まで!』

ロックスター(Vo.フルカワ)はいつもライヴの度にそう言って観客を煽っていた。

2012年4月、バンドは念願の水道橋でライブを行った。

しかも解散ライブに、だ。

しかし、残念なことに、水道橋は水道橋でも、東京ドームは東京ドームでも・・・東京ドームシティホール。

ファンも悔しそうなら、バンドも悔しくてしょうがないのがヒシヒシと伝わる解散ライブだった。

 

ロックバンドがエンターテイメントを演出できることを証明したバンド

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DOPING PANDAは凄いバンドである。
今あるフェスブームは彼らのおかげと言っても過言ではないと私個人は思ってる。
だって2002年の時点でこんな完成されたディスコロックを奏でるバンド、存在していなかった。
邦楽ロックの歴史の教科書に、「フェス=ダンス空間」という項目が追加されたのは一重にこのバンドが居たからである。
電話ズもサカナクションもBBBも、今で言えばフレデリック、KEYTALKも、DOPING PANDAと言う先駆者が居たから成立していると言ってもおかしくない。

1997年結成のスリーピースロックバンド。
2000年代初頭、メロコア、パンクの色が強いバンドだったのだが、踊らせるビートの強さは当時から邦楽ロック随一だったドーパン。
2002年に発売され、話題を呼んだディズニーのロックトリビュートで、知る人ぞ知るバンドから次世代のロックシーンを担う存在として注目され始め、当時徐々に盛り上がり始めていた野外ロックフェスに出演するようになる。
まだあのROCK IN JAPANもソールドアウトすることが珍しい時代、ドーパンはそのニューウェイブ、ディスコロック、エレクロニカと言ったエッセンスを散りばめた雑多な音楽性で、フェスにダンスの空間を提供し、それまでの硬派なイメージのあった野外ロックフェスの概念を変えた。
ロックフェス=老若男女、誰でもが楽しめるエンターテイメント空間という公式はドーパンのライブから始まったと言っても過言ではない。

その時から、ヴォーカル:フルカワことロックスターは『この一曲が水道橋まで続いてるんだぜ』って言ってた。
よく覚えてる、言ってた。
しかも一人称が『スター、今日はね・・・』だった。
わあ、スターにしきの以外にスターって居たんだって思ったのを忘れない。
そして、その言葉に見合うだけの極上のダンス空間を提供し続けた。

フェスでの入場規制で、「有名だから」「滅多に見れないから」という理由以外で、入場規制がかかったのは、おそらく彼らが最初な気がする。
そして、その入場規制の理由は「盛り上がりたいから」。
知名度やプレミア感を、踊りたい欲求、盛り上がりたい願望が上回った歴史的瞬間であった。

ダンスロックの雄として世間の期待が沸点に達したタイミングで、満を持してソニーよりメジャーデビューが決まる。

パンク、メロコアに限らず、スカやレゲエ、ジャズと言った様々な曲調をインディーズ時代に試していた彼らが本気出して世の中を躍らせにかけたのがこの曲だ。
4つ打ちとカッティングによるシンプルなアンサンブル。
サビも『YA×7』と繰り返すだけのシンプルで覚えやすいフック。
どこまでも人力なのに、途方もなく踊れるダンスロックの完成形をデビューと同時に世の中に叩きつけた。

『Hi-Fi』に代表される電子音の打ち込みと同期した4つ打ちのディスコサウンドももちろんスゴイ。
むしろ、世間的はそっちの方が代名詞的だろう。
デジタルサウンドをバンドの軸に据え、エフェクト一つ取っても非常にセンスがあり、軽快で乗りやすいのに、ハイブリッドな未来感たっぷりの独自のダンスロック。

しかし、そんなのはあくまで装飾に過ぎなく、この当時のドーパンのスゴさは、実はそんなものに頼らずとも、3ピースの必要最小スタイルで、十二分に踊り狂わせるだけのパワーを放出できたことだろう。

ただピコピコ鳴ってるバンドはいくらでもいた。
実際、ドーパンが表舞台に出てくる直前に、くるり、SUPERCARらがエレクトロニカに挑戦し、一定の成果を残してはいた。
ただ、踊り狂うまでには至らなかった。
あくまで、マイナーなジャンルで、オシャレ気取る人たちが嗜むものに過ぎなかった。

ロックンロールで踊らせ、オカズ(電子音ら)を加えハイにさせ、パンクに暴れさせる。
今やしっかり方程式となったこの公式もドーパンが実践するまで、さほど必勝法とは呼び難かった。

そんな世の中を、力づくでひっくり返した。
デビュー盤のこの「YA YA」がこんなにも力強い曲に聴こえる理由は、そんな彼らの信念が、曲に120%込められたからだろう。
異常なまでのわかりやすさとノリやすさとキャッチーさから『売れてやろう』とヒシヒシ伝わってきた。

メジャー移籍後、この曲のような、力いっぱい踊れて、一緒に思いきり歌えるダンスチューンをこれでもかってくらいに連打していく。

そしてダンスロックの金字塔メジャー1st「DANDYSM」をリリースし一躍スターダムへ踊り出る。

自分たちも完全無欠のダンスバンドを自覚し、ライブ中には「無限大ダンスタイム」と銘打ち、40分の持ち時間の30分強をノンストップで踊らせ切るイケイケっぷり。
一度、そのビートで踊ることを覚えたリスナーは中毒患者のように、踊れるロックンロールをドーパンに限らず貪る様に求めるようになっていき、バンアパやビークルら同時期に頭一つ抜きんでたバンドとともに、「ロックンロールで踊る」ことは当たり前になっていき、ロックで踊り狂うフェスの光景は徐々に当たり前のものとなり、その運動量の多さから、ロックフェスは一種のスポーツとなっていった。

 

向かうところ敵ナシの無限大ダンスタイムだったが・・・

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ドーパンが一番勢いに乗っていた2006年。

この年、野外ロックフェスが完全に日本におけるひとつの文化として定着するだけの人気を獲得した。

ドーパンはフェスの盛り上げ隊長として、全国各地のフェスで日本国中を躍らせまくった。

ドーパンで踊りたい若者で入場規制となったLAKE STAGEは今でもロッキンの語り草だ。

日本中がこのエレクトロダンスロックに夢中になったのです。

「Hi-Fi」「The Fire」「MIRACLE」「beautiful survivor」「I'll be there」「beat addiction」

この時のドーパンの踊れる具合はホントの神でした。

そして、ちゃんと大衆が納得する大味を提供しておきながら、アルバム曲で渋い良曲も披露するから聴く方は大変でした。

エレクトロ路線とは真逆のタイトなバンドサウンドの「Moralist」などはその代表じゃないかと思う。

3ピースの限界に挑戦するかのようなアンサンブルで、メランコリックで哀愁あるメロを料理する彼らの初期の名曲の一つである。

後は暗くてエロい雰囲気が充満していた「decadence」。

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小難しいことをやり始めたのもこの辺ですが、まだ全然キャッチーで、難解だけどパワー溢れる名盤です。

日本語詞の割合も増え、スターの歌詞の世界観が意外と深かったことに驚かされる。

インディーズ時代の「GAME」「Candy House」「PINK PUNK」といったポップな詞や、ノリノリのダンスナンバーらの、キラキラで甘々な詞が、ダークでドロっとした大人な禍々しさをまとって表現されている。

それを良しとするかは聴く人次第だが、スターの表現力の新たな可能性がしっかり垣間見えた作品であることに間違いない。

音数が少なく疾走感MAXなのに全然踊れる「majestic trancer」

得意の4つ打ちなのに、どこかファンクを匂わせる「crazy one more time」

「gaze at me」というチルアウトしちゃいそうなテクノアンセム

どの曲も、打ち込みも分厚ければ、バンドサウンドも引き出しが豊富で、非常に、非常にポップである。

 

しかし、鉄板のセットリストで完全無欠のダンスタイムを提供する傍ら、徐々にバンドは、いやソングライター・古川は悩み始めていく。

より先進的な、周囲が舌を巻くようなサウンドを目指して、流行りのオートチューンを試してみたり、m-floにラップを被せてもらったり、ありとあらゆる努力をするのだが、気付けばあの4つ打ちが懐かしく感じてしまうくらい、出る曲出る曲小難しいノリづらい曲ばかりがリリースされていく。
そして、革新的なイメージを求め、技術的に高度なことに挑戦しすぎたせいか、『わかりやすく』『ノリやすい』『馴染みのある』ビックチューンが新曲でリリースされることが少なくなっていき・・・

挙句の果てには、素晴らしいことが証明済みの自分たちの名曲にもメスを入れ始める。
海外に通用するアレンジにシフトチェンジしたとは言っているが、聴いてる方にはただの迷走にしか思えなかった。

こんなもの見せつけられて、コアなファンですら正直困り果てただろう。

もっとシンプルに、もっと肩の力を抜いた、彼ららしい楽曲にはもう二度と会えないかもしれない。

ラストアルバムの「YELLOW FUNK」を聴いた時にそう感じた。

事実、メジャーレーベルに属していて、ライブの盛り上げに絶対の定評があるはずなのに、解散2~3年前から、フェスのラインナップからも少しずつハズれていっており、もしかしたら干されてるんじゃないか、と冷や冷やしたのを思い出す。

『今ちょっと潜っているだけ、きっとドーパンは戻ってくる』

ファンはそう信じていたに違いない。

だって、スターは言っていたから。

『一緒に東京ドームまでついてきてくれよ』と。

 

2012年4月、DOPING PANDA解散

解散ライブの終盤の終盤に披露された彼らの不屈のアンセム「Crazy」。
しかも驚きなことにその日2回目の。
歌いだしの『I'm sorry me. ミラクル起こせなくてさ』で涙腺が崩壊したのは自分だけではなかったと思う。
元々逆切れのように書き下ろされたこの曲。
それが最後の最後でこんなにも悲しく響き渡るなんて思いもしなかった。

 

ドーパンはミラクルを起こせず、2012年、解散した。

 

変化を歓迎するファンが思ったよりも少なくて、リリースの度にセールスが落ちて行った中で、モチベーションを維持できなかったのかもしれない。

残念だ。

もうひと踏ん張りできれば・・・ただの躍らせるだけのバンドじゃない域まで、もう少しだけ我慢すれば行けたかも知れなくて、ドームクラスのバンドになるためには、そこからもうひと脱皮するのは必然だっただけに、残念でしょうがない。

最後の作品「YELLOW FUNK」を聴いて、『まだこれからだよな』と、実験の成果を納得し、次を期待していたのに。

「音楽的にこの先さらに深い所でできないのなら、慣れ合って続けるのではなく、この時を持って幕を引くべきだという結論に至りました」

2012/1/28

 

でもFireは赤く焦がれ続けてる

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解散後、一人になったロックスターが再び始動したのは2013年。

2015年、アーティスト・フルカワユタカはもがき苦しみながら音楽を鳴らし続けている。

今年5月には「無限大ダンスタイム」というイベントまで開催し、あの当時のセットリストを披露してくれるとか。

でも、そこにタロティーとハヤトは、きっといない。

勘弁してくれよ。

ドーパンの曲って、たった400のキャパを踊らすもんじゃなかったろう。

東京ドームの収容人数は55,000人。

あの日のLAKE STAGE、10,000人超。

 

昔の曲を演るなら、また3人でやってくれないだろうか?

そして、またそのビッグマウスを聞かせてくれ。

ソロで自由になった彼が書き下ろす曲が、新しくないけれど、やっぱり素晴らしいから、切にそう思う。

 

邦楽ロックの歴史の中のドーパンの二ページ目、待っています。

ドーパンを知らない今の若者!
テストに絶対出るから聴いときなさいね!!

 

 

 

素晴らしい音楽を、素晴らしい日常に。

Let’s sing A song 4 ever.

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