BASEMENT-TIMES

読める音楽ウェブマガジン

ホーム
アバウト
人気記事
月別索引
オススメ記事

資源の無駄じゃね?【バンドのチラシ・フライヤー無用論】

 突然だが、みなさんは”超芸術トマソン”というものをご存じだろうか?

tomason

 アレコレと説明するより、目で見てもらった方が早いだろう。

 上の写真は以前私が三重県で発見したトマソン体である。写真の中央あたりに、2階の高さのところに扉があるのがおわかりいただけるだろうか。これがトマソン体である。

「建築物に付着して、美しく保存されている無用の長物」のこと。前衛芸術家、赤瀬川原平らが発見、定義した概念。
制作者にとっては芸術と意図したものではないが「観察者が発見することで芸術作品になる」という特異性によって「超芸術」と呼ばれる。

はてなキーワード - トマソンより引用

 例えば上の写真のものは分類上「高所タイプ」に分類される。2階についている扉、全くもって無用の長物である。

 「高所タイプ」以外にもみなさんどこかしらで見かけたことはないだろうか、上った先になにもない「純粋階段」や塞がれているにもかかわらず門の形だけをとどめている「無用門」やら。

 街の中を歩いているとたまに見つける、これら全く意味をなさない構造物たち、それらを総称してトマソンというのである。

「トマソン」という名は、ほかならぬ読売ジャイアンツの四番打者、ゲーリー・トマソンに由来する。
彼は鳴り物入りで巨人軍に招聘されたが、二年目である1982年には、四番打者でありながら「扇風機」と呼ばれるほどに三振を繰り返した。その姿に「美しく保存されている無用の長物」を見た赤瀬川原平とその一派が、これら超芸術の一分野の名として「トマソン」を採用したのである。

ニコニコ大百科 - トマソンより引用

フライヤーって必要か?

 フライヤー、キャパ100ぐらいの地元のライブハウスに行くと入り口で手渡される色とりどりのデザインに工夫を凝らせたゴミ。ケツを拭くには硬すぎるし、焼き芋するには数が少ない。書かれているのは知らんバンドの絶対に行けない平日のライブイベントの告知で、たまたま知っているバンドのイベントのフライヤーを受け取ったとして「その情報、Twitterアカウントで1日3回ぐらい告知してるしもう半月前から知ってる…」みたいな。とにかくライブに鞄を持ってこない素人を苦しめることだけを目的とした存在だ。

 そう、フライヤーとはまさにトマソン。人がせっせと頑張って作っているフライヤーをトマソン呼ばわりするのは、ちょっと気が引けるが、フライヤー必要だと思いますか?

 僕は正直全然要らない。コンビニのレシートはもらう僕でも要らない。レシート渡されそうになると嫌な顔する人とかにフライヤー差し出したら殺されるんじゃねえかな。

 以前ライブハウスでバイトしていた時にもちょくちょく観察していたが、やっぱりそういう人が多かった印象がある。たまにトイレとかテーブルにチラシが散らかっていたりすることがあるが、そうするなら入り口で一言要らないっすって言ってくれた方が助かるな。たまにそれを手に取って悲しそうにしてるバンドマンを見かけると見るに堪えない。わかるよ気持ちは。でもそれってナンパして無視されて「無視は酷いだろ!」つって泣き出すのと同じくらい理不尽。認識の改善が求められる。

 

 というわけで改めてフライヤーの必要性について考えてみたいと思う。

 フライヤーの最終目標はライブに来てもらったり、CDを買ってもらったり、あと直接購買行動に移さなくとも単純に目に触れてもらうというのも目標の一つだろう。

 まず先にライブとCDの購買行動について、コレに関しては既にアーティストのファンだったりする場合を除くと達成できる可能性は非常に低いように思われる。

 こういうことを書くと引用リツイートで「私は買ったことあるんだけどなあ~」みたいなことを言う人がいるが、自意識がヤバいから今すぐスマホを叩き割って野菜食って瞑想しててほしい。これらのひとを除くとゼロ。特にインディーズの集客10ぐらいのバンドのフライヤーなんかは効果ゼロ。極論だがヘタな希望は時に人を殺す。ここは勇気とやさしさをもってバンドマンのみなさんに「フライヤー、無意味でっせ」と語り掛けたい。

 だってスマホでYouTubeやSNSから死ぬほど情報が溢れている現代、人類は既に情報疲れ気味だ。そこにフライヤーを渡すなんてのは、焼肉でおなかいっぱいの人に無理矢理カンパン食わせようとするようなものだ。

 

 そしてもう一つが人の目に触れるという目標。

 これも正直効率が悪いように感じる。というのもフライヤーをじっくりと見て情報収集するような人は、フライヤー以外のものもじっくり見ていることが多いだろう。雑誌やらネットやらなんやら。効果はゼロではないが、費用対効果効率は悪い。

「いや、ライブに来るほど音楽が好きな顧客層にアピールできるんだからフライヤーは強いんだよ。わかってないなあ」

 そんなライブハウスのジジイの声がいましがた聴こえてきた。うるせえライブハウスに足しげく通う人間ほどフライヤーなんか捨てるか断る習慣がついて見ねえわコラ。

 認知してもらうのだけが目的ならば、それもまた本末転倒ではないだろうか。特にネットだったらその場でYoutubeで音源まで聴いてもらえるしな。ネットで広告を出すなり、女性人気のあるネットアイドルみたいなフォロワー2000前後のデカくして可愛くなくしたあのちゃんみたいな女にTシャツのモデルやらせるとかのほうがよっぽど効率いいぜ。

 フライヤー・チラシというと何となく手堅いイメージがあるが、ことバンドにおいてはスーパーのチラシやなんかとはまた勝手が違うのである。即時性のある有益情報じゃないからな。

 

フライヤーも悲しきスマホの犠牲者ではないだろうか

 書き出してみるとどうにも効果がなさそうなフライヤー。

 そもそもなんで配っているのだろうか。もちろんひとそれぞれ事情はあるが、大体の場合は「フライヤーって配るもんでしょ?」的な具合で思考停止しているように感じる。

 元々のことを考えてみれば現在よりも一つ前の世代、今のようなスマホはもちろんインターネットすら一部のマニアックな人たちしか触らなかったような時代。

 そんな時代に音楽の宣伝をしようと思った時、使える手段は雑誌かラジオかポスターか、くらいのものである。

 そういう時代感であればフライヤーという宣伝媒体はかなり有用なものだったのだと思う。割と低予算だし受け取り手の地域と年齢層と属性をかなり絞ることができるし。今でこそライブ情報なんてスマホ片手にササッと調べることができるが、そういう時代ではフライヤーがなければ知らなかったという事態もあっただろう。

 

 さて、時代は変わって今現在。スマホ全盛期。電車の待ち時間だろうが、ライブの待ち時間だろうが、隙さえあればスマホを弄る生活。昔空想の世界だった「人々が常時インターネット接続している」みたいなサイバーパンクの世界観を時で行く時代。

 カーナビからコンパクトデジカメ、MP3プレーヤーなどなど沢山のものがスマホによって駆逐されていったが、フライヤーというものあまり振り返られなかっただけで、実は内側のほうからスマホに侵略されているのではないだろうか。誰も全くフライヤーを見ていない、ということはないかもしれないが、1枚のフライヤーが挙げる効果はスマホがなかった時代よりも確実に劣っているだろう。

 

 その空間にいると中々気づかないことって多いと思う。僕が学生だった頃は学ランのしたにカッターシャツを着るとダサいみたいな風潮があったのだが、アレも今思い出してみるとマジで何だったのかよくわからない。今でこそ普通に寒いから下にシャツ着ろよと思うが、あの当時は特にその風習はあたりまえだったからな。

 つまりそういう具合である、フライヤーが有効であった時代から、連綿と受け継がれてきて、今の時代になっても「みんなやってる」から何の疑いもせずに、なんとなくくらいの気持ちでフライヤーを配っているのではないだろうか。バンドマン百人にフライヤーを配る理由を聞くアンケートをきいたら、ちゃんと答えられるのはせいぜい3人くらいだろう。

 

無形トマソン、フライヤー

 かくして思うのである。フライヤーを配る行為というのは重要無形文化財ならぬ、無形トマソンではないのかと。

 かつては建造物の一部として、立派に役目を果たしていた階段やら扉やらが、時の流れと環境の変化で無用の長物、トマソンになってしまった。それと同じ具合だ。バンドを宣伝するツールの定番として存在していたフライヤーも、現在ではインターネットの波にのまれ、今ではライブハウスに行くともらえる邪魔なもの程度のものとなってしまったわけだ。悲しきかな。

 別にただ放置されているだけならまだしも、フライヤーというやつは作るのに思ったより労力がいる。僕も作ったことがあるのだが、普通に丸半日程度は潰すつもりでかからないといけない。丹精込めて作ったフライヤーが無下に捨てられているところをみると、なんともやりきれない気持ちになる。悪いのは仕事を受けた自分だ。誰も責めるまい。

 別に全てのフライヤーに対して作る必要はない、というわけでもないが、費用や労力、そして資源などなどその辺を天秤に掛けて一度本当にそのフライヤーは作る必要があるのか考えて欲しいものである。個人的には万単位で刷らない規模のフライヤーはいらない気がする。

 と言うわけで今回はこの辺りで!限りあえる資源を大切に!ラブアース! 

オススメ記事

記事検索

オススメ記事