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2023/12/31

邦楽ロック

CRYAMYが売れたから俺はこのクソサイトを辞められたのかも

 CRYAMYの話を聞きたくてこの記事を開いた方が大半だと思う。その大半の方には申し訳ないんですが、いまから書くのは俺、石左の話になる。すみません。でもこの記事は石左の遺言のようなものなので最後に少しのわがままを許してほしい。

 河野と初めて出会ったのはもう7年も前のことになる。ヤツがCRYAMYのカワノになる前の話だ。CRYAMYのカワノになる前のヤツは金髪にStussyのタンクトップを着た土木作業員だった。バンドをやりたいと言っていた。どんな音楽が好きなの?と訊いたらMineralとかGet up kidsとかSyrup16gが好きだと言って暗い目を伏せて話すので、なんか冗談でも言って和ませてやろうと思い「なーんか激ロック系だねェ!!」と、河野のルックスをその時流行っていたWanimaになぞらえて小粋な邦楽ロックジョークを飛ばしたおぼえがある。

 激ロックを知らない人は調べてみてほしいんですが、この伏し目がちなアンニュイな男児にはおおよそ似つかわしくないWanimaライクな単語、"激ロック"。だけど河野は激ロックの存在を知らなかったため「なんかすごいロックってことかな…?」と褒められたと勘違いしていた。喜んでいた。アホなんだなコイツと思った。今思えば、その直感は直撃で当たっていた。

 河野は素朴で不器用で優しいアホだった。素朴で不器用で優しい、は多分ヤツの歌を愛している人なら良く知っている通りだと思うし、せっかくなのでアホの部分を紹介しようと思う。

 多分名前を出すのを河野は嫌がるだろうがPK shampooのヤマトと俺、あとPKとうちのCDストアの金を根こそぎ持って行ったでお馴染みリクという男で毎晩経堂の浜焼太郎で飲んでいた時期があった。その日は河野がバイトだというので3人で飲んでいると酩酊した野生のドラマーに絡まれヤマトがまあまあの暴言を吐かれるという一幕があった。ヤマトは酔っていて言葉がわかる状態じゃなかったので喧嘩になる前にタクシーに押し込め、俺の家に直帰した。LINEで「ってなことがあったんだよ」と河野に送ると河野は一言「すぐ行く」と言い、5分で俺の家に来た。昭和のヤンキー漫画でしか見たことないダボダボのボンタンを履いて現れ、なんだいったいその恰好はと訊く俺たちにポツリ一言「喧嘩つったら、これっしょ」

 CRYAMYに運転免許持ちがおらずペーパードライバーの俺が運転することになった際も、ハイエースを見て一言「大型自動車免許もってんの!?」

 種子島育ちの常識知らずの火縄銃。規格外のテラバイトバカそれが河野蓮太郎。深くは書かないが九州で人生に負けて東京に落ち延びて、勝って人生を取り戻すためにアコギ一本握りしめて音楽スラム世田谷区にやってきた河野。今はもうつぶれた池袋の地下アイドルしかほとんど出てないライブハウスでパワーコードで弾き語りをしていた。あいつにFコードを教えたのは俺。CRYAMYのファンはFが鳴るたびに俺に感謝してくれ。あとGとC9とAmも俺です。Bは教えたけど弾けませんでした。

 話は変わるがその時のバンド業界は終わってた。今も別方向に終わっているが、業界ってのはいつも常に終わってるらしい。当時のCRYAMYの記事を読んでもらったらわかると思うが、雑に一言で腐すのであればKANA-BOONの偽物やっときゃ一応人権は確保完了みたいな状況で、俺はそんなもんが聴きたくてバンドバンド言ってねーのになと思っていた。今思えばこれは俺のないものねだりだっただけだったし、みんなにはそれがよかったらしい。でもあの時いたそういうバンドたちは今もうどこにもいない。会社も契約を切って当時のファンは今JO1だ!M-1だ!とか忙しそうにしている。俺はいまだにバンドバンド言っている。察しの通りこれは嫌味だ。世の中から見て間違ってんのはいつも俺の方だけど、俺から見て俺達の方が正しいと今でも思っている。

 大森靖子がその当時「音楽は魔法ではない」と言っていたのをよく覚えている。知れば知るほど、俺の大好きだったバンドというやつは魔法じゃなくて現実だった。会社だった。商売だった。仕事だった。近づけば近づくほど嫌いになっていきそうで、俺はこのサイトを更新することもだんだんと辟易していった。俺はバンドが上手く行かなかったから、上手く行った人たちに夢を見ていた。チャンスもコネも才能も何もない田舎のガキはいつだってそうだ。でも何者でないまま死ぬのはどうしても恐ろしく、なりふり構わず尖って暴れるしかない。良い子にしてたら死ぬだけだ。振り返ってみてもその見立ては大正解だった。でも、気が付いたら、なりたかったかっこいいバンドじゃなくて、なりたいと思ったこともなかった石左という俺になっていた。書いてみなよとペンを持たされて、たまたま結果が出たからそれに甘んじた。夢を下方向に軌道修正して自分を納得させていた。だから許せなかった。バンドが、性欲で人選する音楽業界のカスのジジイが、俺が真剣にみんなにわかってほしい音楽のことじゃなくて有名バンドに二流のジョークを添えた記事の方に軍配の上がる数字が、読者が、そしてそれに甘んじている自分が醜くて陽を見れなかった。自分の斜め後ろにいるうちの親父のようなヤツにずっと馬鹿にされている気がした。だから人に馬鹿にされるとされるに足る理由が思い当って、腹が立って怒っていた。それでも、気が付いたらこのサイトは会社になって、食わせるべきスタッフがいて、最低になって、数字に甘えていかなければいけなかった。

 でも河野は違うなと思った。ヤツは俺と違って賢くない。現実とか数字とかに感情をすり合わせられない真っ直ぐなバカだと思った。少し羨ましかった。だから卑怯な俺は河野に夢を擦り付けようと思った。いや、なんかこんな表現じゃないな、なんだろう、"人の夢を手伝う良い人"みたいな体裁の良いポジション気取って俺の屈折した怒りを代わりに吐き出してもらおうとした。だけど河野のことを現実とか数字とかに感情をすり合わせられないバカだと思ったこの見立ては、大きく外れていた。ヤツを死ぬほど苦しめることになってしまった。

 俺は河野みたいな愚直な馬鹿野郎が全部ぶっ壊すのを見たかったし、CRYAMYが少年少女の手に渡ることがその時の現状よりも絶対に正しいと思った。あいつの歌だけは嘘を歌わず美しかったし、レイの突き抜けた馬鹿さも何かをちゃんと破壊して成し遂げるパワーがあると思った。半端に何かポジションとか利権や知恵を持った生きるのが上手いバンドマンたちよりも、放っておいたら死にそうなヤツらの方が美しいと思った。正しさなんてのは人によって違うのは重々わかってはいるけれど、俺の思う正しいはCRYAMYだった。

 でも俺たちにはせいぜいこのサイトぐらいしか切れるカードはなく、知名度も後ろ盾も金もなにもなかったので尖り闘うしかなかった。尊厳という売ったら帰ってこない臓器みたいなもんを売るしかなかった。当初、下北沢という街に「なんか他所(インターネット?)からやってきたやつらだ」と忌み嫌われ、その時のシーンや業界には散々煮湯を飲まされた。

 俺はCRYAMYの前にtetoというバンドにこのサイトのデモ審査で出会っている。良いバンドだと思った。UK projectという俺の大好きなバンドがあまた所属するレーベルと、当時覇権を握っていた残響レコードという会社とうちの三者でデモ審査を公開生放送でやろう!という企画に応募してきていて、俺は一聴して「スゲーいい」と思った。だけれど、UKの社員でその昔は銀杏Boyzのマネージャーだった軽部さんという男に「でもこれ銀杏のパクりじゃん」と言われてしまい結局優勝は別のバンドになった。なんだけど、俺はどうしてもtetoが気になってライブを見に行って客がほぼゼロの新宿JAMで自分の住所(埼玉県戸田市上戸田クレストヒル304/現住所ではない)を叫んでいるボーカルの小池を見て「これだ」と思った。知り合ってお酒を飲んで手伝うようになって、俺は勝手にtetoのことをアツい良い兄貴分だ!信頼できる!と思っていた。信頼とは、自分の身を守る責任を他人に押し付ける体のいい言い訳だというのに。

 知ってるツテにできるだけ声をかけて、方針を相談して、物販を売って、MVも作って、記事を書いて宣伝したらなんとか売れ始めた。そこでUKの軽部さんが現れて「tetoやっぱりすごい良いと思うんだよね」と言い始めた。レコーディングスタジオを用意してくれて、良いイベントにたくさん呼んでくれて、気が付いたら原盤権はUKprojectのものになっていて、UKと契約して、俺はクビになった。デモ審査にも参加してくれた残響レコードの河野さんには「契約には気を付けれよ~」と何度も言われていた。俺が若く、愚かで、社会を知らなかっただけの話だ。UKPは一切法を犯していないしこの件について何も後ろ指をさされる必要はない。

 tetoの時にかなり売り上げに貢献したはずのCDショップにもCRYAMYの取り扱いには難色を示され、数字をまだ持たないバンドに会社は死ぬほど冷たかった。文字通り俺たちは死にそうだったし、殺してやると逆恨みもした。俺はCDショップを立てて、当該CDショップに中指と宣戦布告を打ち立てたりもした。

 でもそんな中で、少しづつ良い付き合いも増えていった。tetoのボーカルとベースが通っていた看護師学校の後輩のガタイカメラマン佐藤瑞樹は、いまだに俺たちの写真を撮ってくれるし、PKやCRYAMYの時もブツブツ文句を言いながら楽しそうにツアーに同行してくれるし、CRYAMYに難色を示した下北沢でDaisyBarの金子だけは俺達を見放さずにいてくれた。レイが「地元でトラッシュノイズってバンドで活動してたヤツなんだけど、このPKshampooってバンドめっちゃええで!」と曲を聴かせてくれて、シーンになれる、ぶつかっていける対バンを、レーベルメイトを探していた俺はすぐに夜行バスに乗って大阪に会いに行った。天満をHue'sのみずやんとヤマトが案内してくれて、50円ぐらいのハイボールを20杯ほど奢ったら俺の打診をすぐOKしてくれた。さっき名前の挙がったリクをPKのスタッフにして、CRYAMYは俺が受け持つような体制になった。リクは金を盗んでしまうこと以外は本当に愉快で良いやつでリクのお陰で下北沢の住人たちと段々と友達になって行った。金はちょっとだけ返して欲しいけど今俺たちが楽しくやれてるのはリクのおかげがデカいと思ってる。

 バンドを続けるうちにSUPとDaisyBarで対バンしてよく会うようになって、時速36kmもROKIもDaisyBarで仲良くなった。そういえば今プリクラマインドってバンドをやってる石ツもCRYAMYのライブに取り置きのDMをしてきたのをきっかけに仲良くなった。ヤマトが「レーベル立てるならこいつら曲めっちゃええで!名前、ドーテーズやけど」と改名前のオレンジスパイニクラブのイカれ兄弟と知り合って、いとこのSuUタクマと河野が気がついたらよく遊ぶようになって、友達の友達がスタッフになっていった。コロナウイルスという言葉はまだなくて、下北沢にいったら誰かがいて、KOGAさんの事務所の裏で飲んで怒られたりしていた。居場所のなかった世田谷区にいつのまにか居心地のいい場所が増えていった。

 でも、バンドには大体四人と数人のスタッフがいて、俺達一人一人が不安と悩みとワガママを抱える個人であり、各々の選択で今全然別の場所にそれぞれ散っていった。シーンとかいうやつになることを期待されてた気もするし、それも可能だった気がするけど、結果はそうならなかった。ヤマト自体は良いヤツだけどヤマトが連れてくる迷惑なタイプの酔っ払いに辟易したり、あるバンドは解散したり、喧嘩したり、ファンの期待が悪い方向に出ることも少なくなかった。

 河野はもちろんCRYAMYに全力を賭けていて、俺だってそのつもりだったけど、未熟な俺はまだCRYAMYじゃなくて俺の人生を闘いたいという気持ちを割り切れていなかったし、河野も多分それをわかっていた。俺は河野に夢をなすりつけたくせにね。

 売れてきたCRYAMYには良い誘いも増えてきて半ば喧嘩別れもした。河野は普通に医者に統合失調症の診断を出されており、俺の精神病も一個や二個じゃ効かないので当然だと思う。むしろ、ヤツは育ちがヤクザなので俺にだけは必要以上に配慮していてくれたと思うのに。この文章は河野にも見せるつもりだから恥ずかしいが、俺と河野が喧嘩している間にマネージャーっぽいポジションにヌルっと入ってきた會田さんという元UKPの銀杏Boyzのマネージャーの男に原盤権を渡すという河野の判断に、過去のトラウマが刺さってしまった。俺が落ち込んで大酒飲んで急性肝炎になった病室に何度も見舞いにきて「ひでえ話だよ!」と怒ってくれた河野が、tetoと同じことをするのかと激怒してしまった。

 でも今思えば、同じ仕打ちというのは曲解で、喧嘩している運転手不在で彼に頼らざるを得なかったし、別に俺をクビにするとかそういうことでもなかった。違うという説明もたくさんしてくれたのに、感情が乗ってしまった俺はすげーひどいこともたくさん言った。もうお前なんかどうでもいい、と。統合が失調していたのは、俺の方だった。でも、2年後會田さんはクビになって河野の方からちゃんと謝ってくれた。あの時俺は本当に嬉しかった。俺の情が報われた気がして嬉しかった。ありがとう。

 結果的にあの時喧嘩別れしたおかげで、誰か(CRYAMYとかバンド業界とか?)の為にと言い訳して石左で居続ける身動きの取れなかった俺を河野が殺してくれたんだと思う。袂を分つことになったのは、河野のストレスの限界だったとも思うし、俺のストレスの限界だったとも思うし、河野の優しさだった気もするし、俺たちが本当に見たかった未来をみるためだった気もする。最後は俺の口から絶縁宣言をしたわけだし、俺は結局、今更でも俺の人生を頑張りたくなっただけなんだろう。

 こんな話は誰にだってよくあるみたいで、昔の音楽シーンもそうだったみたいだし、浅草キッドを見て芸人とか俳優とかYouTuberも似たようなものなんだなと通り過ぎた今は思う。

 人生に盤石の安定などなく、無名なら無名なりの闘争が、売れたら売れた先での闘争が、戦わずに石を投げる人たちにはそれはそれで彼らのアンチ活動という闘争がある。本人たちにとってはどれも大事な闘争だ。その中でも特に、河野は闘い続けたと思う。名前の上がった誰よりも闘ったと思う。こいつのせいで俺もいまだに闘争から逃れられないほど、ファンや友人やもっと大事な誰かに誠実でいるために闘った男だ。

 音楽業界は嘘だらけだったけど、CRYAMYだけは誠実でいてくれたし、本当に嫌だったあの時のバンドシーンを本当の意味で本当を突き通して壊してほしいって俺の勝手な願いをちゃんと叶えてくれたと思う。

 石左はもう俺にとって他人だし、あと時の俺たちももうどこにもいない。いつも誰かかしらいた浜焼太郎には別の人たちが座っている。でも浜焼太郎の壁には酔ってつけた傷が残っているし、爪痕が音楽に、インターネットに、各々の曖昧な記憶に残っている。

 最後に、地下室TIMESをやろうと誘ってくれた谷澤、関わってくれた人たち、紹介させていただいたバンドのみなさん、俺のエゴに付き合い続けてくれた読者のみなさん、本当にありがとうございました。

 もう書くことはないと思ったこのサイトで、今までのことをやっと文章にすることができたのは、あの時頭を下げてくれた河野と、あんなにROKI全然好きじゃねーって言ってた俺をバンドに誘ってくれた大樹、勇人、あとこのサイトと石左を捨ててゼロから音楽をやってみることを応援してくれた友人たち、みんなのおかげです。俺より河野の方が有名になっちゃって、CRYAMYのことを話すのはなんか人気に乗っかるキツネのようでずっと書けなかったけれど、みんなのおかげで胸張って今までのことを言うことができました。ありがとう。

 石左の名前を使って音楽やんのは卑怯だと思ってずっと言えなかったけど、俺は今とても楽しくバンドをやっています。こことはまた別のインターネットであーでもないこーでもないと闘っています。ありがたいです。何年も感謝を伝えられずにいて申し訳なかったです。ありがとうございました。

 これでもう言い残したことはない。エレキギターが違法になろうが、タバコの税率が8000%になろうが、河野の声帯が壊死しようが、俺がロボトミー手術しようが、形を変えても闘争を俺たちはやめないと思う。世論と俺たちの各々思う正義が同じになることはない以上死ぬまで闘うんでしょう。

 石左から、現在の俺達に。この記事を花として送ります。CRYAMY日比谷野音開催おめでとう。

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