どうせサブカル嗜むならこのくらいやれ!"印象派"
サブカル女子。手垢にまみれた蔑称だ。
カテゴライズしておけばとりあえずの優位は疑似的に確保できる。故に安心を求めて他人をカテゴライズしあうこのディストピア日本では「オタク」「DQN」「陰キャラ」「サブカル」誰もがこの4つのいずれかに当てはめられている。言葉の威力だけ一人歩きしてナカミもクソもない。
さて話は戻ってサブカル。サブカル?
各分野に見地が深い人物はたしかに魅力的だ。趣味に全力、多いに好かろうもん。しかし「サブカル」と他称されればなんだか文化人のような趣だが、結局のところはいち消費者に過ぎない。多くは文化を享受する側であって、生産する側に回る人間は稀。せいぜい高いカメラでカプチーノを撮るくらいなもんだ。小藪と二人きりの密室に監禁してやろうかこのやろう。いやダメだ。あいつらお笑いにも精通したがるからかえって喜びそう。
サブカルチャー街道は茨道。多くの黒髪ボブが拗らせ、勘違いをし、友人の微妙なヌード撮ったり、被写体とか名乗って腕もクソもないカメラマンに抱かれたり、音楽ライター名乗ってみたり、DJやったり…、あん?僕じゃねえか、これ。
そんな地雷原を見事走り切り本物の異彩を見せつけるユニットがいる。もはやサブカルなんて呼称は失礼なくらいだ。
今日はそんな二人。"印象派"を紹介しよう。
遊んでやがる
ピューっと吹くジャガーの作者であり、稀代のギャグ漫画家、うすた京介が単行本の空白に寄せた端書でこんなことを語っていた。
「遊びじゃないんだ!真剣にやらなきゃ、という意識でずっと漫画を描いていたが、箸にも棒にも掛からなくて、やけくそになって適当に描いた漫画を送ったら絶賛された。真剣にやっちゃだめなんだなと思いました」
正確な文の並びまでは憶えてないが概ねこんな内容であった。
思うに、全てがこれに当てはまるわけではないが、世の中のミュージシャンの多くは真剣にやりすぎだ。
「人生がかかってんだ!最高の一曲を作ってやる!」
そんな風で余裕のない曲が大半を、特に駆け出しのバンドであればあるほど息がつまるような曲が多い。
もちろん悪いことではないが、明確な答えのない音楽において、最善を重ね続けるということは無難を重ねるということに等しく、無難が積み重なった曲はどうしても何かに似かより埋もれる。頭角を現すのは「ヤバい発明を見つけた奴」か「ふざける余裕がある奴」だと僕は思っている。
印象派は後者、完全に遊びつくしている。
バカだ。めちゃくちゃかっけえ。
要所要所に入ってくるロゴがズルい。笑うよ、こんなの。
生き別れた孤児が、サイボーグになり両陣営の威信を懸けて戦う。っていう構図がメタ面白い。真剣なB級映画で笑っちゃうような可笑しさを意図的に作ってしまっている。
見どころの連続でラストまで見させられてしまう傑作MVだ。
人間突飛なことをやろうとしたらいくらでもできる。めちゃくちゃな絵を描いてキュビズムだと言い張ったりも、できる。デタラメな変拍子や移調、テンポチェンジを繰り返して「どうですか?芸術的でしょ?」とでも言わんようなバンドも知名度問わず多くいる。奇をてらうというやつだ。しかし彼女たち印象派はそこには当てはまらないだろう。
遊び要素が多く、実験的な部分が目立つが、曲をまとめるバランス感覚が素晴らしく最終的にはポップに収まっている。ルールを理解した上でルールを破ったり守ったりしている。上記のようなただのデタラメたちとは全くの別物だ。
どの曲を聴いてもしっかり「今回はこれをやりたかった!」というコンセプトが見えるのが良い。しかも大げさなものでなく、コンセプトに押しつぶされておかしなことになったりしない。ちゃんとキャッチーに仕上がっている。
例えばこの曲だったらば、動かない曲の展開の裏で、鳴らす楽器の差異でいかに曲の山谷を作って聴いている側の耳を奪うか。本人たちがどういう意図でつくったかはわからないが、聴き手が「うわ、こんなことしやがる」と思わされてしまった時点で彼女たちの勝ちだ。
1stを出したばかりの彼女たち。ライブの評判も良くこれからのシーズンフェスで見かけることもあるだろう。
名前で食わず嫌いせず一目みてみてはいかがだろうか。
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