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三宅洋平、音楽を政治に使うのは卑怯だろ

 三宅洋平については俺よりみなさんの方が詳しそうだ。彼の人物像について、とりあえずここで言うことはない。

 音楽と政治問題。こういう場所で俺みたいな奴が政治についてどうこう言うとモメる。ので今回は「音楽を政治に転用するのは反則技」というこの一点に話を絞ろうと思う。三宅洋平は、ズルしてたんだ。

音楽の歌詞のズルさ

 歌詞って、ズルいなあ。と常々思う。みなさん思いません?例えば

 マイヘアイズバッド、今期の邦楽では一番好きなバンドだ。かっこいい。しかし歌詞はと言うと要約したらば

「俺の浮気が原因で別れた元カノだけど未だにすごい好きです」

 クズもクズだろ。

 しかし歌にされてしまうとなんかね、すごく正当なこと言っている風に聞こえてしまう。これを歌詞の正当化力と呼びたい。

 西野カナの歌詞なんか文面だけ見たら本当にタダのアバズレよ。それを大声で、メロディに乗せて言うとなぜか「わかる…」とかなってしまう。マジで危険。歌詞はマジで危険。

「働きたくない!酒飲んで漫画読んでたい!死にたい!」

 みたいな主張。どう考えても生物として破綻しているが、五十嵐隆が歌うとなんかこう「そうだよね…」となるんだよね。染みちゃうよね… ダメだよ働け。

 そんな歌詞の危険性な、やっぱり頭のいい奴は政治とかに転用しようとする。くだんの三宅洋平もまさにそれ。

 ここで彼の言ってる内容について間違ってるか正しいかなんていう話はしないが、こんなやり方ズルいだろ。内容に関わらず精神に訴えかけて無理矢理説得させてしまう、そういう魔力が音楽にはある。オスプレイ反対デモのインタビューで見かけた「なんかよくわからんけどオスプレイ反対!!」って言ってた人たちなんか、この説得力の前では一撃である。これが卑怯でなくて、なんだ。

しかし、先日のSEALDsフジロック出演問題にて「音楽に政治思想を持ち込むのは不純だー!」という人と「ロックって元々反体制の精神だろ」という諍いから聞ける主張にもある通り、音楽はしばしば政治に転用される。

たとえばRage Against the Machineなんか、まさにそうで奴らなんかバンドというより反社会組織である。メチャクチャかっこいい。聴いてると何故か「アメリカの政権腐敗許せねえ!ポリスは敵!!」みたいな気持ちになる。アメリカ行ったことない俺がだよ?日本に住みながらも聴いてる時は完全に米国の被差別民族の気持ちになるもん。

 

アレは反体制のスピリットなくしては生まれなかった音楽で、曲自体はカッコイイし非の打ち所がないけれども、そのカッコ良さを使って主張を通し民衆を煽動すんのは、ズルいよ。

 

演説が上手さ=意見の正しさではない

そもそもからして「演説が上手い」なんて概念からしてオカシイ。喋りが上手い奴じゃなくて、政策理念が望ましい奴を選べよと。吉本芸人の人気投票じゃないんだぞ。

三宅洋平は歌なんかそこらへんのバンドがお遊びに見えるくらい上手い、ライブ回しもアツい、曲も渋いよ。アーティストとしては最高。だからこそズルい。卑怯だ。極端を言えば「原発とかよくわかんないけどかっこいいから投票する〜!」なんて奴から票集めてそれを民意と言えるのかと。

 

政治はフェアなバトルじゃない

 しかしだ、政治はそもそもからしてフェアではない。いや政治に限らず、音楽でもなんでもだが。

 よく言われるのは少数意見の取り扱いについてだ。日本の政治は基本的に多数決によって動いている。しかし勘違いされがちだが多数決=民主主義ではない。

 たとえばクラスで多数決を取った時、49%の奴がトンカツを食いたくて、51%の奴がカレーを食いたかったとする。多数決で決めたらば昼飯は全員カレー。俺たちトンカツ派は涙をのんでカレー。しょっぱいね、何のスパイスかな?これが多数決。カツカレーという和平は許されない。極端な話こういうことである。

 また、51%の票で選ばれたカレー側の代表も、ハヤシライス協会からの票があったりしてハヤシライスの意見も無視できなかったりな。何の話だこれは。

 なんだか俺にはやっぱり政治は老人や金持ちのものなんだなあって、思える時がある。だって議員の人って金持ちの老人ばっかだもん。金のない若者の意見なんか尊重してもらえると思えない。俺たちは一生トンカツ食えない。多数決だからそもそもからして絶対数の少ない若者たちの「年金とかいう老人から若者への経済リンチはなくせ」みたいな意見は政治舞台では存在しないものとされてしまう。けど多数決ならば世の中貧乏人の方が多いわけだし「所得の偏差値60以上の人間、全員死刑」みたいな法案も通りうるのに、絶対通らないよね。むちゃくちゃ言うならこういうことだよね。本気にしないでね。

 

理不尽を覆すには卑怯な手も必要

 人生は理不尽であることを認めることから始まる。平等は残酷な嘘だ。だからば、三宅洋平もレイジも卑怯な手でも使わなきゃいけないくらい不利な立場にある。理不尽の中にあっては卑怯と卑怯の殴り合い。音楽でも何でも使って主張をねじ込むのはそういう意味では、正当だ。

 好きなバンドとか球団を応援するくらいのカジュアルさがあってもいいのに。音楽も政治も神聖視されなくなればいいのに。えらいひとみんなしんじゃえばいいのに〜。

 三宅洋平の政策案には反対だし、やり方も卑怯だが、面白かった。面白いってことは、カジュアルってことだ。いいじゃん。いや反対だけど。

あと山本太郎は普通にヤダです。

 

こういうことを、俺みたいなやつがこういう所で好きに言っても誰からも文句言われない世の中になりますよーに。

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